最高裁判所第三小法廷 平成元年(オ)1667号 判決 1994年2月22日
上告人
大串義春
外一七七名
上告人ら一七八名の訴訟代理人弁護士
横山茂樹
外三三名
上告人有川春幸、同内野春次郎、同谷村静、同十時為生、同早田ミツエ、同谷村静野、同山下シカ、同石丸源市、同山田政次、同井手留雄の訴訟代理人弁護士
佐伯静治
外一〇八名
被上告人
日鉄鉱業株式会社
右代表者代表取締役
吉田純
右訴訟代理人弁護士
山口定男
中川幹郎
関孝友
三浦啓作
松崎隆
上告人目録(一)(二)(三)<省略>
従業員目録(一)(二)(三)<省略>
主文
原判決中、別紙上告人目録(一)記載の上告人らに関する部分及び別紙上告人目録(二)記載の上告人らの敗訴部分を破棄する。
前項の各部分につき本件を福岡高等裁判所に差し戻す。
別紙上告人目録(三)記載の上告人らの上告を棄却する。
前項に関する上告費用は右上告人らの負担とする。
理由
上告人ら代理人横山茂樹及び上告人有川春幸、同内野春次郎、同谷村静、同十時為生、同早田ミツエ、同谷村静野、同山下シカ、同石丸源市、同山田政次、同井手留雄の代理人佐伯静治の上告理由第一点ないし第五点について
一本件は、被上告人が経営していた長崎県北松浦郡所在の各炭鉱の従業員として炭鉱労務に従事し、じん(塵)肺に罹患した患者六三名(別紙従業員目録(一)(二)(三)記載のとおり)の本人又は相続人が、被上告人に対し、雇用契約上の安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償を請求するものである(以下、右患者六三名、すなわち、上告人らのうち被上告人に雇用されていた者及びその余の各上告人の被相続人全員を「上告人ら元従業員」という)。
原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。
1 被上告人は、昭和一四年に設立された株式会社であり、同年八月北松鉱業所を設け、鹿町、矢岳、神田、御橋などの各炭鉱を開発経営し、また同二九年から伊王島鉱業所も経営するようになったが、各炭鉱の終掘により、同四〇年北松鉱業所を廃止し、同四七年伊王島鉱業所を閉山した。
上告人ら元従業員は、被上告人と雇用契約を締結し、それぞれ、右各炭鉱のいずれかにおいて、炭鉱労務に従事した。
2 「粉じんを吸入することによって肺に生じた線維増殖性変化を主体とする疾病」(じん肺法二条一項一号)であるじん肺は、粉じん(粉塵)が肺内に沈着すると、肺組織が、長い年月をかけて、これを細胞内部に取り込む線維化と呼ばれる生体反応を続け、やがて肺胞腔内の線維が固い結節となり、最後には融合して手拳大の塊になり、肺胞壁を閉塞させるというものであり、吸い込む粉じんの種類により、けい(珪)肺、金属じん肺、炭素じん肺、有機じん肺等に分類される。
じん肺による病変は不可逆的であり、現在の医学では治療は不可能である。また、肺内に粉じんが存在する限り右反応が継続するところ、肺の線維増殖性変化は、粉じんの量に対応する進行であり、無限の進行ではないが、気管支変化、肺気腫は進行し続ける。そのため、粉じんを発散する職場を離れた後、長年月を経て初めてじん肺の所見が発現することも少なくない。進行の程度、速度は多様であるが、進行する場合の予後は不良であり、心肺機能障害は乏酸素血症を招き、その結果全身萎縮を来し、あるいは心不全より肺性心を招き、また肺感染症を合併して死亡に至るとされている。
3 昭和三〇年七月二九日けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法(以下「けい特法」という)が制定され、けい肺第一症度からけい肺第四症度までのけい肺の症状を決定する手続が定められた。
そして、昭和三五年三月一日じん肺法が制定され、エックス線写真像、心肺機能検査の結果、結核精密検査の結果、胸部に関する臨床検査の結果の組合せによる、管理一から管理四までの「健康管理の区分」を決定する手続が定められ、更に同五二年七月一日同法が改正され、エックス線写真像と肺機能障害の組合せによる、管理一から管理四までの「じん肺管理区分」を決定する手続が定められた。じん肺の所見があると認められる者は、管理二以上に区分され、管理四と決定された者は、療養を要するものとされている。
4 上告人ら元従業員六三名は、いずれも、じん肺(けい肺)の所見がある旨の行政上の決定(けい特法に基づくけい肺の症度の決定、前記改正前のじん肺法に基づく管理二以上の健康管理の区分の決定又はじん肺法に基づく管理二以上のじん肺管理区分の決定)を受けており、その最終の行政上の決定をみると、五八名が管理四とされ、その余の二名は管理三に、また三名は管理二にとどまっている。
そして、右六三名のうち、別紙従業員目録(三)記載の二〇名については、最終の行政上の決定(最も重い行政上の決定)を受けた日から本訴提起の日までに一〇年を超える期間が経過している。その余の四三名については、最終行政上の決定を受けた日から一〇年未満のうちに本訴が提起されているが、このうち別紙従業員目録(一)記載の一〇名については、最初の行政上の決定を受けた日から本訴提起の日までに一〇年を超える期間が経過している。右一〇名の中には、昭和四一年にじん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受け、その四年後である同四五年に管理四の決定を受けた者もあれば、同三〇年にじん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受け、その二一年後である同五一年に管理三の、次いで同五三年に管理四の決定を受けた者もある。
二被上告人は、本訴において、民法一六七条一項の一〇年の消滅時効を援用した。
第一審は、上告人ら元従業員が最終の行政上の決定を受けた時から消滅時効が進行するとして、別紙従業員目録(三)記載の二〇名に係る損害賠償請求権は時効により消滅したと判断し、上告人目録(三)記載の上告人ら(右二〇名の本人又は相続人)の請求を棄却したところ、原審は、上告人ら元従業員が最初の行政上の決定を受けた時から消滅時効が進行するとして、右二〇名及び別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権は時効により消滅したと判断し、別紙上告人目録(三)記載の上告人らの控訴を棄却するとともに、別紙上告人目録(一)記載の上告人ら(右一〇名の本人又は相続人)の請求をも棄却した。
三しかしながら、別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとする原審の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
雇用契約上の付随義務としての安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は、民法一六七条一項により一〇年と解され(最高裁昭和四八年(オ)第三八三号同五〇年二月二五日第三小法廷判決・民集二九巻二号一四三頁参照)、右一〇年の消滅時効は、同法一六六条一項により、右損害賠償請求権を行使し得る時から進行するものと解される。そして、一般に、安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、その損害が発生した時に成立し、同時にその権利を行使することが法律上可能となるというべきところ、じん肺に罹患した事実は、その旨の行政上の決定がなければ通常認め難いから、本件においては、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受けた時に少なくとも損害の一端が発生したものということができる。
しかし、このことから、じん肺に罹患した患者の病状が進行し、より重い行政上の決定を受けた場合においても、重い決定に相当する病状に基づく損害を含む全損害が、最初の行政上の決定を受けた時点で発生していたものとみることはできない。すなわち、前示事実関係によれば、じん肺は、肺内に粉じんが存在する限り進行するが、それは肺内の粉じんの量に対応する進行であるという特異な進行性の疾患であって、しかも、その病状が管理二又は管理三に相当する症状にとどまっているようにみえる者もあれば、最も重い管理四に相当する症状まで進行した者もあり、また、進行する場合であっても、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受けてからより重い決定を受けるまでに、数年しか経過しなかった者もあれば、二〇年以上経過した者もあるなど、その進行の有無、程度、速度も、患者によって多様であることが明らかである。そうすると、例えば、管理二、管理三、管理四と順次行政上の決定を受けた場合には、事後的にみると一個の損害賠償請求権の範囲が量的に拡大したにすぎないようにみえるものの、このような過程の中の特定の時点の病状をとらえるならば、その病状が今後どの程度まで進行するのかはもとより、進行しているのか、固定しているのかすらも、現在の医学では確定することができないのであって、管理二の行政上の決定を受けた時点で、管理三又は管理四に相当する病状に基づく各損害の賠償を求めることはもとより不可能である。以上のようなじん肺の病変の特質にかんがみると、管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する病状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となるものというべきであり、最初の軽い行政上の決定を受けた時点で、その後の重い決定に相当する病状に基づく損害を含む全損害が発生していたとみることは、じん肺という疾病の実態に反するものとして是認し得ない。これを要するに、雇用者の安全配慮義務違反によりじん肺に罹患したことを理由とする損害賠償請求権の消滅時効は、最終の行政上の決定を受けた時から進行するものと解するのが相当である。
そうすると、原審がこれと異なる見解に立ち、別紙従業員目録(一)記載の一〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとの理由で、別紙上告人目録(一)記載の上告人らの請求を棄却したのは、民法一六六条一項の解釈適用を誤った違法があるというべきであり、この違法は原判決中右棄却部分に影響を及ぼすことが明らかである。論旨のうち、右の違法をいう部分は理由があり、原判決中、別紙上告人目録(一)記載の上告人らに関する部分は破棄を免れない。そして、右破棄部分については、右上告人らが主張する損害と安全配慮義務違反との間の因果関係の有無、損害の額等につき更に審理を尽くさせる必要があるから、右部分につき本件を原審に差し戻すこととする。
四次に、別紙従業員目録(三)記載の二〇名に係る損害賠償請求権が時効により消滅したとする原審の判断は、前記説示に照らして是認することができ、その過程にも所論の違法はない。右部分に関する論旨は、採用することができない。
同第六点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、被上告人が消滅時効を援用することをもって権利の濫用に該当し、又は信義則に反するとはいえないとした原審の判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
同第八点について
一別紙上告人目録(二)記載の上告人らは、別紙従業員目録(二)記載の上告人ら元従業員三三名の本人又は相続人であるところ、本訴において、被上告人に対し、本件安全配慮義務違反による損害賠償として、右上告人ら元従業員一人当たり一律三〇〇〇万円の慰謝料と弁護士費用三〇〇万円の支払を求め、財産上の損害を別途請求する意思がない旨を陳述した。
原審は、右三三名の慰謝料の額について、基本的に管理区分を重視するが、管理四該当者のうち原審における鑑定の結果軽度の障害と判定された者については、これを減額事情として斟酌すべきであるとした上、戦前及び終戦直後において本件安全配慮義務の履行が必ずしも容易であったとはいえないこと、石炭鉱業の社会的有用性及び被上告人が戦中・戦後に果たした社会的役割、上告人ら元従業員がその管理区分に対応する労働者災害補償保険法、厚生年金保険法に基づく保険給付を受けていること等のすべての事情を考慮して、〔A〕死者を含む管理四該当者(一八名)につき一二〇〇万円、〔B〕管理四該当者のうち鑑定により軽度の障害と判定された者(一一名)につき一〇〇〇万円、〔C〕管理三該当者(二名)につき六〇〇万円、〔D〕管理二該当者(二名)につき三〇〇万円とするのが相当と判断し、なお、弁護士費用については右各慰謝料額の一割に当たる金員を相当とした上、右上告人らの請求中、被上告人に対し右各慰謝料額及び各弁護士費用の合計額を超える金員の支払を求める部分を棄却した。
二しかしながら、慰謝料額に関する原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
元来、慰謝料とは、物質的損害ではなく精神的損害に対する賠償、いわば内心の痛みを与えられたことへの償いを意味し、その苦痛の程度を彼此比較した上、客観的・数量的に把握することは困難な性質のものであるから、当裁判所の先例においても、「慰謝料額の認定は原審の裁量に属する事実認定の問題であり、ただ右認定額が著しく不相当であって経験則又は条理に反するような事情でも存するならば格別」である(最高裁昭和三五年(オ)第二四一号同三八年三月二六日第三小法廷判決・裁判集民事六五号二四一頁)とされている。
しかし、ここで留意を要するのは、上告人らによる本訴請求は慰謝料を対象とするものであるが、物質的損害の賠償は別途請求するというのではなく、かえって他に財産上の請求をしない旨を上告人らにおいて訴訟上明確に宣明し、上告人ら自身これに拘束されているのが本件であることである。
したがって、上告人らは、被上告人の安全配慮義務の不履行に起因するところの、財産上のそれを含めた全損害につき、本訴において請求し、かつ、認容される以外の賠償を受けることはできないのであるから、本訴請求の対象が慰謝料であるとはいえ、他に財産上の請求権の留保のないものとして、原審が慰謝料額を認定するに当たっても、その裁量にはおのずから限界があり、その裁量権の行使は社会通念により相当として容認され得る範囲にとどまることを要するのは当然である。
以上の考察に立って本件をみるのに、まず、上告人ら元従業員が被上告人の経営する炭鉱において長期間にわたって炭鉱労務に従事した結果、じん肺に罹患したものであること、じん肺が重篤な進行性の疾患であり、現在の医学では治療が不可能とされ、進行する場合の予後は不良であることは、前示のとおりである。
そして管理四該当者はすべて療養を要するものとされているが、前記管理四該当者合計二九名の個別の症状の経過及び生活状況に関する原審確定事実によれば、右二九名のうち、原審がAランクに格付けし慰謝料額一二〇〇万円をもって相当とした者は、症状が重篤で長期間にわたって入院し、あるいは入院しないまでも寝たり起きたりの状態であったり、呼吸困難のため日常の起居にも不自由を来すという状況にあり、そのままじん肺に伴う合併症により苦しみながら死亡した者もあること、また、原審がBランクに格付けし慰謝料額一〇〇〇万円をもって相当とした鑑定により軽度障害と判定された者でも、重い咳や息切れ等の症状に苦しみ、坂道等の歩行は困難で、家でも休んでいることが多く、夜間に重い咳が続いたり呼吸困難に陥るため、家族の介護を要するといった状況にあること、右の二九名は総じて、被上告人を退職した後じん肺の進行により徐々に労働能力を喪失して行ったもので、労働者災害補償保険法等による保険給付を受けるまでの間、極めて窮迫した生活を余儀なくされた者が少なくないこと等が明らかである。
これによると、本件において死者を含む管理四該当者の被った精神的損害に対する評価については、一般の不法行為等により労働能力を完全を喪失し、又は死亡するに至った場合のそれに比してさしたる違いを見出すことはできず、したがって、以上の事実関係の下においては、特段の事情がない限り、原審の認定した一二〇〇万円又は一〇〇〇万円という慰謝料額は低きに失し、著しく不相当であって、経験則又は条理に反し、右にみるような慰謝料額認定についての原審の裁量判断は、社会通念により相当して容認され得る範囲を超えるものというほかはない。
この点につき、原判決は種々の事情を挙げているが、被上告人が上告人ら元従業員の雇用者としてその健康管理・じん肺罹患の予防につき深甚の配慮をなすべき立場にあったことを勘案すれば、本件安全配慮義務の履行が必ずしも容易であったとはいい難い一時期があったことその他、原判決説示の被上告人側の事情を考慮しても、なお前記慰謝料額認定についての原審の裁量判断を正当化するには遠く、結局、原審の右判断には、損害の評価に関する法令の解釈適用を誤った違法があるというに帰着する。そして、このことは、管理四該当者の慰謝料額の認定を前提とするとみられる管理三及び管理二該当者各二名の慰謝料額の認定判断にも、同様の違法があることを裏付けるものであって、以上の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。
したがって、この点の違法をいう論旨は理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決中、別紙上告人目録(二)記載の上告人らの敗訴部分は、破棄を免れない。そして、慰謝料額を当審において認定することはもとより相当でないから、右に説示したところに従い原審において改めて審理判断させるため、右部分につき本件を原審に差し戻すこととする。
以上のとおりであるから、原判決中、別紙上告人目録(一)記載の上告人らに関する部分及び別紙上告人目録(二)記載の上告人らの敗訴部分を破棄し、右各部分につき本件を原審に差し戻すこととし、原判決中別紙上告人目録(三)記載の上告人らに関する部分については、その請求を棄却すべきものとした原審の判断は正当であって右上告人らの上告は理由がないから、これを棄却することとする。
よって、民訴法四〇七条一項、三九六条、三八四条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官可部恒雄 裁判官園部逸夫 裁判官佐藤庄市郎 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫)
上告人ら代理人横山茂樹及び上告人有川春幸、同内野春次郎、同谷村静、同十時為生、同早田ミツエ、同谷村静野、同山下シカ、同石丸源市、同山田政次、同井手留雄の代理人佐伯静治の上告理由
序説、第一部、第二部序章、第一章第二ないし第五、第二章、第三部<省略>
第一章
第一、原判決は民法一六六条の解釈・適用を誤ったものである(上告理由第一点)
一、民法一六六条規定の消滅時効起算点に関する原判決の論旨と問題点
1、原判決は、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権を積極的債権侵害ととらえたうえで、本来の給付義務の不履行の場合とは異なって理解すべきであり、本来の債務とともに消滅するものでないとしつつ、損害の発生すなわち「損害賠償請求権『発生』のときから消滅時効が進行する」と判示している。
確かに、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権については、損害が発生し、債権が成立しなければ、それ以前に消滅時効の進行などありえようはずもないことは当然の理であって、その範囲では原判決の述べるところは妥当である。
しかし、本件じん肺被害のような進行性疾患について、第一にどの時点で全損害についての損害賠償請求権が成立したものと考えるべきか、さらに、第二にどの時点で「権利を行使することを得るとき」というべきかについて、原判決には次の重大な法令の解釈適用の誤りがあると言わなければならない。
2、原判決は、じん肺罹患の症状が現実化・顕在化したときに「損害が発生」し、同時に将来にわたる全損害につき「債権が成立」すると結論づける。
債権が成立したと言いうるためには、損害自体が法律上請求可能な程度に特定され、金銭に評価することが可能でなければならない。しかし、一定の時期にじん肺罹患の症状が顕在化したとしても、この時点で将来にわたる死に至る全損害を法的に評価し金銭に換算することは不可能と言わなければならない。確かに、抽象的にはじん肺症が不可逆性・進行性の疾患であり、死に至る病であるとは言いえても、損害額を計算するには粉塵職場からの離脱の時期、健康管理・治療の内容、合併症への罹患等、予見できない各種の要素を考慮せざるを得ず、単にじん肺罹患の症状が顕在化したからといって全損害についての損害賠償請求権が成立し、かつ権利行使が可能であると解釈することは、理論的にも実態的にも不当である。
更に、原判決は、「じん肺症状の現実化・顕在化した時」とはどのような時かについて、当時の医学的知見により有所見の診断が可能な程度に症状が発現し、じん肺罹患が客観的に確認された時点、すなわち最初の行政管理区分の決定を受けた日であると結論づける。しかし、最初の行政決定時から時を経るに従い徐々に症状が進行したとしても、死亡に至るまでは全損害が確定するわけではなく、したがって、理論上も、実際上も、最初の行政決定を受けた時点で将来にわたる全損害について賠償請求することは不可能である。
なお、原判決は、右の反論を予測して、それ以降より重い行政上の決定を受けたとしても、消滅時効の起算点との関係では、単に予見可能な損害の範囲が量的に拡大したことを意味するにすぎず、それ以上の意味を有するものでないから、より重い行政上の決定を受けた時をもって起算点と解すべきではないとするが、このような判断自体、行政管理区分を設けたけい特法及びじん肺法が病状の悪化を防ぐことを目的としているという立法趣旨を全く理解しない暴論である。
3、ところで、原判決は、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効起算点について、民法一六六条適用論を前提としつつ、「権利を行使することを得るとき」の解釈を、「法律上の障害がないこと」に加えて「権利の性質上その権利行使を現実に期待することができるものでなければならない」とした。これは一見するとあたかも債権者の権利保護を図ろうとしたかのようである。
しかしながら原判決は、他方で、じん肺罹患の症状が現実化・顕在化したときに「損害が発生」=「債権が成立」し、同時に「消滅時効が進行」すると結論づけており、結果的には、履行期の定めのない債権の消滅時効に関する一般論として言われているところの、法律上の障害がなく債権成立のときから消滅時効が進行するというのと何らかわりないところに帰着するという誤りを犯している。原判決が、「権利を行使することを得るとき」を、「法律上の障害がなく」かつ「権利行使を現実に期待することができるとき」と解釈する以上、原判決の消滅時効の起算点に関する具体的判断の誤りは、次の点で明白と言わなければならない。
第一に、じん肺症のような進行性疾患については、損害が確定するに至るまでは、訴訟上の請求をなすことが可能な程度に全損害を法的に評価することは不可能であるから、そのような状態ではいまだ法律上の障害がなくなったとはいえず、したがって、全損害が確定するまで(死亡に至るまで)消滅時効は進行しないものと解すべきである。このことは、「債権の成立」に関する原判決の問題点として指摘したところであるが、かりに、理論上、本件のような進行性疾患について、被害が顕在化した一定の時点で全損害についての損害賠償請求権が成立していると構成する道を採用したとしても(全損害についての損害賠償請求権が抽象的に成立し、被害が現実に拡大・進化するのに対応して具体的な損害賠償請求権が成立し、訴訟上請求可能、すなわち、法律上権利行使可能な状態となるという理論構成も整合性を有する)、損害が確定するまでの間は、少なくとも民法一六六条との関係においては、「権利を行使することを得るとき」として、学説・判例が述べているところの「法律上の障害」ありと解釈すべきである。この点でも原判決の法令解釈・適用の誤りは明らかと言わなければならない。
第二に、法律上の障害がないことに加えて、権利行使が現実に期待可能であることを必要とする原判決が、「損害の発生」「請求権の成立」「消滅時効の進行」を本件の場合に時期的にイコールだとして掲げる論拠は、①じん肺罹患の症状が現実に発現し顕在化したときに健康保持義務不履行による健康被害の結果(損害)が発生すること、②右時点で健康保持義務不履行の存在が客観的に認識可能となり請求権行使が現実に期待できることの二点である。しかし、じん肺症のような死に至る不可逆性・進行性の疾患については、行政管理区分決定がなされて健康被害が一定程度顕在化したからといって、それだけで一概に、法的に評価可能な損害が発生したとはいえず(行政管理区分決定は専ら健康管理を目的とするものである)、さらに、じん肺罹患の症状が現実に顕在化したときをもって、死に至る全ての損害について訴訟上請求可能とは到底いえず、その点で原判決には重大な誤りがあることは既に指摘したところである。
したがって、原判決のように、症状が現実に発現し顕在化すれば請求権行使が現実に期待できるとすることは、理論的にも実態的にも不当と言わなければならない。また、右時点で健康保持義務不履行の存在が客観的に認識可能になったとの原判決の認定は、明らかに事実に反している。
第三に、原判決が「権利の性質上その権利行使を現実に期待することができる」ことを要件とした以上、健康保持義務違反を理由とした損害賠償請求事件である本件において「権利の性質」の分析、及び「現実に」権利行使を「期待」するためには一審原告らにどのような認識が必要であったのかを具体的に検討すべきであったのに、原判決はこれを怠っている。
後述するように、健康保持義務違反を理由とする損害賠償請求権の構造が不法行為と同一であるという権利の性質に思いを至せば、原判決がその時効起算点を「権利行使が現実に期待できた時」と立論した以上、当然、その内容として、不法行為の時効に関する規定である民法七二四条に規定する「損害及び加害者を知りたるとき」という要件もあげて考察すべきであった。
(なお、「損害及び加害者を知りたるとき」という要件を本件において持ち込むことは民法七二四条の準用又は類推適用を行なうべきであるという立論によっても可能である。
しかし、民法七二四条を準用又は類推適用するという立場をとらなくても、民法一六六条の解釈論として、原判決のとるように「権利の性質上その権利行使を現実に期待することができる」ことを要件とする立場で権利の性質を究明することによっても、当然「損害及び加害者を知りたるとき」を要件とすべきであるという結論に達しうるのである。
原判決は一審原告らの主張を民法七二四条の類推適用の主張とのみ理解し、類推適用を排斥しただけで、権利の性質上、民法一六六条の解釈論として「損害及び加害者を知りたるとき」という要件が必要であることについて検討しなかったものであり、一審原告らの主張を正確に理解していなかったものといわざるを得ない。)
また、原判決は権利行使を「現実」に期待できることを要件としている。「現実」に期待できるか否かということを判断するには、個々の一審原告らについてその職業、地位、教育などを具体的に検討したうえで結論を導くべきであるのに原判決はこれをも怠っているのである。
4、原判決は、民法一六六条の「権利を行使することを得るとき」について、法律上の障害に加えてさらに権利行使の期待可能性が必要であると判示するが、最初の行政管理区分決定時に、死に至る全ての損害の賠償請求について「権利行使の期待可能性」があるとの結論的判示は、如何なる事情をもって「権利行使の期待可能性」ありとするのか、合理的根拠を示していない。
すなわち、権利行使の期待可能性とは、損害及び健康保持義務不履行の事実、さらに両者の間の因果関係に関する各事実について、権利行使が可能な程度に具体的に認識可能な状況にあることが必要とされることは当然であり、最初の行政決定の段階で右認識可能な状況にあるとは到底言い難い。ところが、原判決は、被害が進行してやがては死に至る疾病であるとの抽象的な事実の認識可能性さえあれば、最初の行政決定の段階で既に全損害についての権利行使を期待し得るという。しかし、
第一に、前項で指摘したとおり、最初の行政決定の時点で死に至る全ての損害の賠償請求について権利行使が現実に可能であったということは到底いえず、また、仮に権利行使が可能な程度に認識し得たというのであれば、それは単なる擬制に過ぎない。
第二に、原判決が最初の行政決定時に権利行使の期待可能性があったとして掲げる論拠は、本件の事実関係から大きく掛け離れ、著しい事実誤認に基づいている。すなわち、原判決は、①有所見の行政決定を受けた時点で、粉塵吸入による肺の線維増殖性変化等の疾病という健康被害が現実に発現、顕在化し、かつじん肺に罹患したことが公的に認定され客観的に確認されたものということができること、②線維増殖性変化の病変は治癒不可能であって、そのような不可逆性疾患としてのじん肺症の病像に関する知見は、けい特法制定・施行を契機として周知され、一般にも漸次認識されるに至ったこと、③最初の行政決定があれば、債務者の健康保持義務不履行の事実が客観的に認識可能であったことからすると、最初の行政決定をうけた時点で本件損害賠償請求権の行使が可能であったというのである。しかし、②の認識が漸次認識されるに至ったというのは事実に反し(むしろ会社は後述のようにこれを隠して従業員らを坑内での粉じん作業に従事させていたのである)、当時、一審原告患者らが死に至る全損害を認識しうる客観的可能性は全くなかったのであり、最初の行政決定の時点で、債務者に関する健康保持義務不履行の客観的認識可能性があったということはできない。また、当時の社会的状況及び企業内における状況からすれば、一審原告らに健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の行使を期待することはおよそ不可能な状況であった。したがって、右最初の行政決定の時点では、一審原告らには抽象的な権利行使の期待可能性さえ存在しなかったのである。
けい特法及びじん肺法は、じん肺症について健康管理の指標として行政上の症度区分決定を行ない、その段階に応じた安全衛生上の措置をとるべく、企業に対してこれを義務づけているのであって、当該労働者がその後被る健康上の障害及びその死に至る進行の程度は、在職中を通じた企業の健康管理措置によって大きく左右される。
従って、最初の行政決定の時点では、以降の症状の予測が不可能であり、損害額の算定という点からみても、権利行使はできなかったものである。
5、原判決の結論によると、在職中に行政決定を受けた者は、在職中から死に至る全損害について消滅時効の進行を認めることにならざるを得ない。本件においては、一審被告がじん肺を隠し、じん肺有所見の行政決定を受けた後も粉じん職場で就労させ続けており、加害行為を継続しているのである。
このように、原判決は加害行為継続中にも全損害について消滅時効の進行を認めることになるのであるが、このような結果は、後述の判例理論にも抵触する違法があると言わなければならない。
6、以上、原判決の問題点について述べてきたが、以下には、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効起算点に関する法令の適用および解釈について述べ、より具体的に原判決の誤りを指摘する。
二、民法一六六条「権利を行使することを得るとき」の解釈
1、民法一六六条は、債権の消滅時効起算点につき、「権利を行使することを得るとき」と規定する。これについて判例・学説は、権利を行使するうえで障害となる事態を事実上の障害と法律上の障害とにわけ、後者の法律上の障害のみが消滅時効の進行を妨げると解釈してきた。そして、この法律上の障害とは、権利そのものの性質上権利に内在する障害をいうものとされ、典型的には債権の履行期(=条件・期限)がこれに該当すると考えられてきたのである。
2、ところで、本件のような健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権については、契約上の債権として一〇年の消滅時効に服するとしても、その時効起算点については学説・判例上、退職日、損害発生時、損害及び加害者を知ったときと、種々の解釈がなされてきた。このうち、健康保持義務という本来の債務とその不履行に基づく損害賠償債務の同一性を根拠に、健康保持義務の履行を請求できるとき、すなわち退職日を起算点説と解すべきであるとする立場の誤りは明白である。原判決が指摘するとおり、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権は積極的債権侵害として本来の給付義務とは異なって理解すべきであって、本来の債務とともに消滅すると解すべきではないからである。
3、補充的契約責任たる健康保持義務の不履行に基づく損害賠償請求権は、特定当事者間における問題であるという側面においては契約責任の領域に帰属しながら、積極的債権侵害として、本来の給付の履行とは無関係に生命・身体・健康などの利益が維持できなかったことに対する損害の賠償を求めるものであり、その法的性質としては不法行為と同一のものと解するべきである。したがって、契約責任であるという意味においては民法一六七条の一〇年の消滅時効に服するとしても、不法行為と同一の構造を有する権利の性質上、損害及び加害者を知らなければ現実に権利を行使することができないのであるから、その時効起算点である権利行使を得るときとは、権利者において「損害及び加害者を知ったとき」と解するのが相当である。
もともと、民法一六六条が、「権利を行使することを得るとき」から時効が進行するとしているのは、条件・期限に関するもので権利を行使することができないときから時効が進行するものでないという消極的意味を有するに過ぎず(梅謙次郎『民法要義巻之一』第一六六条)、既に述べたような、権利そのものの性質上権利に内在する障害とは、なにも条件・期限に限られるものではない。これを本件のような健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権に即して解釈するならば、権利の性質上、「損害及び加害者を知る」ことがなければ現実に権利行使することは不可能であるから、これを権利に内在する障害として考えるべきは当然の理というべきである。
ところで、「知ったとき」という債権者の主観によって時効起算点が左右されることは、法律上の障害と事実上の障害とを区別して前者のみを時効の進行を妨げる事由と解釈してきた判例の立場に抵触するとの批判が考えられる。しかし、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の不法行為と同一の構造を有する権利の法的性質、及び、民法七二四条の趣旨からすれば、これを法律上の障害ととらえて然るべきであるし、そのように解しても従来の判例と抵触するものではない。
4、ところで、法律上の障害を厳格に解し、これに限定して消滅時効の起算点を解釈したのでは、本件のような紛争を、権利の性質に即して、矛盾なく合理的に解決することは不可能である。そのため、判例・学説は、民法一六六条の消滅時効起算点について、紛争の実態や請求権の構造・法的性質に即した解決をはかる立場から、権利行使が期待可能であることを要すると解するなど、債権者保護の方向へと論を進めてきている。すなわち、星野英一教授は、「法律的に権利が発生していたか否かが裁判所で始めて明らかになる場合も少なくなく、その際に債権者とりわけ素人にその判断の危険を負担させることは酷である。従って、これは『権利を行使しうることを知るべかりし時期』即ち、債権者の職業、地位、教育などから『権利を行使することを期待ないし要求することができる時期』と解するべきである」(『民法論集』第四巻三三一頁)としている。さらに、福岡地裁小倉支部昭和五八年三月二九日判決(判例時報一〇九一号一二六頁)も、「民法一六六条の起算点について、債権を行使するについて厳密に法律上の障害がなくなった時を意味するものでなく、権利者の職業、地位、教育及び権利の性質、内容等諸般の事情からその権利行使を現実に期待ないし要求出来るときとすべきである」と判断している。
原判決も、一般論として「権利の性質上、その権利行使を現実に期待することができること」を要件としており、基本的にはこうした流れに与するものと言いうるが、その適用の場面で具体的な検討を怠った点において重大な誤りを招いている。原判決が右のような一般論を立てた以上、「権利行使の期待可能性」の有無について判断するためには、債権者において、損害及び健康保持義務不履行の事実、両者との間の因果関係について認識可能であったかどうかについて具体的事実に則して検証せざるを得ないはずである。
三、損害が確定しない限り消滅時効は進行しない
1、本件のような死に至る不可逆性の進行性疾患の場合、どの段階の損害を賠償請求するかによって、「権利を行使することを得るとき」はいくつかの時点が想定できるはずである。しかし、それぞれの段階で、賠償請求について要件事実となる「損害」は、現に発生しているか、もしくはその損害が(計算上)法的に評価しうる程度に具体的に予見可能でなければ、訴訟上の請求として成り立ちえないことはいうまでもない。現に発生し、あるいは権利行使可能な程度に予見できる損害があれば、その範囲の損害について賠償請求権が発生しているとしても、これを超える損害については、未だ債権が未発生であって、消滅時効は進行しようがないのである。すなわち、訴訟上賠償請求可能な損害は、金銭に換算可能な状態になっていることを要するのであるから、その基礎となる具体的事実についての認識ないし認識可能性がない以上、現実的には、具体的な請求権は未だ成立していないものと解するのが相当である。
2、ところで、最高裁第三小法廷昭和四二年七月一八日判決は、予測できない損害が後日発生した場合について、受傷の事実を知った当時において未だ必要性の判明しない治療のための費用についてはこれを損害としてその賠償を請求するに由なく、このような費用、すなわち損害については、後日その治療を受けるようになるまでは、民法七二四条の消滅時効は進行しないと判断している。そして、その理由について、そのように解さないと「損害賠償請求権の行使が事実上不可能なうちにその消滅時効が開始することになって、時効の起算点に関する特則である民法七二四条を設けた趣旨に反する結果を招来するにいたるからである」と述べている。
右は、民法七二四条を設けた趣旨から、予測できない損害について消滅時効が進行するものではないと解したものであるが、その趣旨は、本件のような健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の場合にも同様にあてはめられるべきものである。
すなわち、右最高裁判決は、既判力の基準時後に発生した損害についても不法行為時に既にその損害賠償請求権が発生・成立しているととらえたうえで、その一部請求の可否を問題とするのであるが、右のように不法行為時に全損害に関する請求権が成立しているととらえるのは、確定判決の遮断効から生じる不当な結果を回避するための論理の擬制ないし単なる比喩に過ぎないものと解すべきである。つまり、後遺症による損害が未だ発生さえ予見できず、現実にも損害賠償請求なしえない時点において請求権が成立しているとするのは、いかにも非現実的であり、訴訟提起ともなれば、これを容認される訴訟上の請求は、具体的に認識された事実に基づき金銭的評価に耐えうるものでなければならないから、未だ右の要件を満たさない段階においては、実体的には請求権は存在しないものと言わざるをえない。にもかかわらず、最初の時点から請求権の成立を観念する右最高裁判決は、再度不都合を回避するために、「損害及び加害者を知る」ことを要件とした民法七二四条の趣旨を持出さざるをえないのである。
このように、債権者が損害賠償請求をなすべき何らの攻撃防御方法も得られていない段階で債権が成立しているとする論理が、擬制ないし単なる比喩だとすれば、実体としては具体的請求権は未だ成立していないとする論理を立てることも十分に可能である。すなわち、権利侵害のときに全損害に関する請求権が発生・成立しているとしても、それはいまだ訴訟上の請求が現実に不可能な抽象的(ないし観念的)請求権に過ぎないのであって、後に法的に評価可能な損害が発生すれば、その時点で具体的(ないし実体的)請求権が成立して訴訟上請求可能なものとなると解しても、右最高裁判決の論理に抵触するものでなく、かえってこのようにとらえることによって、全体を矛盾なく理論づけることができる。そして、例えば七二四条前段について、後遺症については症状が固定するまでは時効は進行しないとする名古屋高裁昭和五五年三月三一日判決等の確立された判例法理も、右の趣旨に添って理解されるべきである。
これを、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効起算点に即して解釈すれば、次のようにいうことができる。すなわち、第一に、損害が確定するまで(すなわち、死亡するに至るまで)は全損害に関する債権の成立はなく(抽象的には既に全損害に関する請求権が成立しているとしても、訴訟上請求可能な具体的(ないし実体的)請求権は未だ成立していないと解釈することもできる)、したがって、消滅時効は進行する余地がない。あるいは、第二に、金銭に評価すべき具体的事実=攻撃防御方法がなく権利行使が客観的に不可能であるという意味において法律上の障害ありというべきであって、よって消滅時効は進行しないというべきである。
3、損害が相当長期にわたって進行的に発生・拡大し、そののち確定する進行性損害の場合に関する消滅時効の起算点を論じた判例としては、代表的には宮崎地裁延岡支部昭和五八年三月二三日日本工業松尾鉱山砒素中毒事件判決がある。これは、不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効起算点について判断を下したものであるが、民法七二四条後段の長期消滅時効の起算点につき、「損害の客観的認識可能という前提の満たされていない場合には、右の擬制(認識が客観的に可能である場合には不法行為の時をもって損害が発生したとみなし、従って損害賠償請求権も発生したものとして処理すること)は採用しえず、損害が現実化・顕在化するまでは時効は進行しないものというべきである」としたうえ、「損害が相当長期にわたって進行的に発生・拡大し、そののち確定する進行性損害の場合は、時効の問題では全損害を一体としてとらえ、右確定のときから(すなわちその進行がやんだときから)全損害につき一律に時効が進行を開始するものと解するのが合理的である(鉱業法一一五条二項参照)」と判断している。このように、進行性疾患の場合に一体何時をもって損害賠償請求権が成立したものと考えるべきかについて論じる判旨の内容は、まさに、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の成立ないし消滅時効起算点に関する法律上の障害の問題にストレートにあてはまるものであり、その結論は、きわめて妥当なものといわなければならない。そして、右判決は、損害が確定した時から全損害について時効が進行を開始すると判示するに当たり、鉱業法一一五条二項を参照条文として掲げるが、この鉱業法に定められた消滅時効に関する規定の趣旨は、本件のようなじん肺被害についても適用されるべきである。すなわち、右鉱業法一一五条二項は、鉱害による賠償請求権の消滅時効は「進行中の損害については、その進行のやんだ時から起算する」と規定しているが、これは、現在進行中の被害についてはそれがやんた時点でなければ損害は確定できず、したがって、消滅時効の進行を認めることはきわめて不合理であるところから消滅時効起算点を「進行のやんだ時」と解すべきものとする当り前のことを規定したものであり、進行性被害であるじん肺症による損害賠償請求権の消滅時効の起算点も、右の趣旨を踏まえて解釈されるべきである。
右以外にも、札幌地裁昭和六一年三月一九日栗山クロム訴訟事件判決は、七二四条後段に関し、右同様の趣旨に基づき、進行性被害の場合には「当該複数の障害がすべて出現・顕在化し、かついずれの障害も当該障害自体としては進行拡大がとまり、固定化したと認められる時点」を起算点としている。
原判決は、損害が現実化・顕在化するまでは時効は進行しないとするまでは右判決と同旨の結論を採用するものであるが、相当長期にわたって進行的に発生・拡大し、死に至るじん肺症については、さらに一歩進めて、右判決と同様、少なくとも損害が確定するため、すなわち死亡にいたるまで時効が進行しないと判示するのが相当であった。
4、じん肺症の場合、最初の行政決定によってじん肺の症状ありと認定されたとしても、それだけでその後の死に至る全損害まで発生したとはいえないことは勿論、その時点で、権利行使可能な程度にこれを予見することは不可能である。
すなわち、じん肺症は、徐々に肺の機能が侵されやがては死に至るまで、長期にわたって健康被害が拡大し続ける疾病であるが、その進行状況や被害の程度は一律でなく、在職中に吸入された粉塵量や当該労働者の個体差によってまちまちである。したがって、じん肺の所見有りとされる最も軽い行政管理区分決定、すなわち、管理区分一の二ないし管理区分二の行政決定があったからといって、この時点で、個々の当該労働者に関して、次の段階の管理区分三の行政決定を受けて粉塵職場から離れ、さらに次の段階である管理区分四の「要療養」すなわち療養のために休業をやむなくされてやがては死亡するという、将来発生するであろう経済的・精神的な全損害を金銭に換算することは、いつ次なる健康管理区分に移行するのか予測できない以上論理的にも実際的にも不可能と言わざるをえない。
しかも、けい特法及びじん肺法に規定される行政上の健康管理区分決定の本来の趣旨は、労災保険法上の後遺障害等級のような身体の廃失の程度を表わすものとは異なり、各段階において施すべき適切な健康管理の指標を設定することにある。したがって、健康管理区分の各段階において企業がとるべき適切な健康管理の措置は、それぞれの段階に応じて異なることはもちろん、企業が適切な措置を現実にとったか否かによってその後の健康被害の程度もしくはその進行が左右されることは当然である。だとすれば、労働者が在職中の場合には、最初の行政管理区分決定がなされたからといって、右のように死に至る全損害について金銭に換算することが不可能なばかりでなく、次の健康管理区分に移行した段階で実際にとられる企業の健康管理措置がどのようなものであるかを予測することは客観的に全く不可能であって、企業の健康保持義務不履行の事実さえ特定できない。したがって、死亡に至る全損害について賠償請求の権利を現実に行使しうる状況には到底ないものである。
ちなみに、継続的不法行為によって損害が日々新たに発生している場合について、大審院連合部昭和一五年一二月一四日判決は、損害が新たに継続発生する限り新たなる不法行為に基づく損害として、その損害を知ったときから別個に消滅時効が進行すると判断しているが、本件のような健康被害については、個々の症状は切り離すことができない一体不可分のものであるから全症状を一個の損害としてとらえ、損害が確定したときから全損害についての消滅時効が進行すると解するのが相当である。
5、原判決は、死に至る健康被害の拡大は、予見可能な被害の量的拡大に過ぎないと判示する。このことが、前記宮崎地裁延岡支部判決と結論を異にした大きな要因と考えられるが、しかし、有所見とされる最初の行政決定から要療養の決定への移行は、少なくとも決して予測可能な健康被害の単なる量的拡大ではない。
すなわち、各段階における行政管理区分決定の趣旨をそれぞれについて検討した場合、そこにはじん肺法に定める企業がとるべき措置には質的な飛躍が存在し、少なくとも要療養の決定を受けた場合には損害の質的飛躍が生じる。
第一に、有所見とされる最も軽い行政決定がなされた場合には、企業には年度毎の健康診断が義務づけられるが、この段階で粉塵への暴露を減少させるなど適切な措置を講じれば、健康被害を最小限に止めることもできる。しかしその程度は、それ以前に当該労働者が吸入した粉塵量によって大きく規定されるものであることは言うまでもない。そして、この時点で当該労働者は、法律上は依然として粉塵労働に従事することが予定され、さらに、最も軽い行政決定を受けたからといって、必ずしも何らかの健康被害に関する自覚症状を覚えたり、労働能力の減退が表われるものでもない。
第二に、管理区分三への移行によって、企業は、法律上、当該労働者を非粉塵職場に転換することを義務づけられる。これを規定する法律の趣旨は、この段階で労働者を粉塵職場から離脱させることによって、病状の悪化をくいとめようとするところにある。配置転換措置は、多くは労働者に収入の低下を余儀なくさせるが、一般には就労を継続する。
第三に、管理区分四への移行、又は、管理区分二、三の患者が要療養の決定を受けた場合は、労働者をして療養に専念することを余儀なくさせる。ここに至って当該労働者は就労することが不可能な状況に追い込まれ、じん肺症特有の苦しい闘病生活を強いられることになる。
第四に、労働者は、じん肺症との因果関係を中断するような特別な事情がない限り、苦しい闘病生活の挙句死に至るのであるが、その過程における被害は、家族を巻き込んだ筆舌に尽くし難い経済的・精神的損害として特徴づけられる。
以上からすれば、じん肺症が進行性の疾患だからといって、疾病の最も軽い段階から死に至る被害の進行は、単なる損害の量的拡大に過ぎないものでは到底なく、特に、要療養の決定を受けて就労が不能になることは法的に評価されるべき経済的・精神的損害の一層深刻な内容を伴う質的拡大と言わざるをえない。
6、損害賠償請求をなすに当たっては、当該労働者が被る損害を法的に評価し、金銭に換算して請求しなければならない。ところが、じん肺に罹患し行政管理区分決定を受けた当該労働者が、経済的損害を被る配置転換措置の対象となるのか要療養とされるに至るのか至らないのか、そうだとすれば一体何時であるのか、さらには、じん肺症によって死亡するのか他の事由によって死亡するのか、じん肺症に起因して死亡するとすればそれは何時の時点か、等々将来被るべき損害を予測することは全く不可能と言わなければならず、これでは将来当該労働者が被るべき全損害について損害賠償請求権を行使することは法律上不可能である。従って、被害が進行中は、全損害について債権が成立しているものとはいえず、あるいは、法律上の障害あるものとして消滅時効は進行しないものというべきであり、損害が確定することをもって初めて全損害についての具体的な債権が成立し、あるいは法律上の障害から解き放たれるものと言うべきである。そして、本件のような死に至る進行性疾患の場合には、「死亡」をもって「損害の確定」となすべく、少なくとも右時点までは消滅時効の進行はないものと解するのが相当である。
7、原判決によれば、全損害が死亡によって確定しない間にも消滅時効の進行を許し、結果的には権利を消滅させてしまう不都合をあえて犯すことになり、その矛盾は甚だしいものである。すなわち、原判決は、最初の行政管理区分決定時に全損害が「予見可能」であるとして、その時点で全損害についての賠償請求をなすべきといった訴訟当事者にとって不可能なことを強いると同時に、管理区分決定に応じて損害認容額に甚だしい格差を設けている。そして、その後当該労働者のじん肺被害が進行して、より重い行政管理区分決定を受け、あるいは死亡しても、最初の行政決定から一〇年経過している以上、新たな被害に対応した損害賠償請求は認めないといった、きわめて酷な結果を強いるのである。これでは、仮に原判決が述べるように、最初の行政決定の時点から一〇年以内に提訴できたとしても、将来の損害を金銭的に換算することが不可能又は著しく困難であるから現実には遅くとも当該訴訟の口頭弁論終結時までの損害填補しかできないこととなり、被害者が被った全損害を填補するという民事損害賠償制度の趣旨を大きく逸脱する結果とならざるをえない。民事損害賠償制度の本来の趣旨を全うさせるためにも、本件のような場合には、損害が確定するまでは消滅時効は進行しないものとする以外にないのである。
以上、損害が確定しないのに消滅時効の進行を認めた原判決の法令適用の誤りは明らかと言わなければならない。
四、権利行使の期待可能性について
1、消滅時効が進行するためには、少なくとも一審原告らにとって権利行使の期待可能性がなければならない。
健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の法的性質が不法行為のそれと同一の構造を有するものであるとすれば、その権利を行使することを得るというには、権利の性質上、債権者が各要件事実(損害、健康保持義務の存在とその不履行の事実、損害と右不履行との因果関係)を知らなければならないことはすでに述べたとおりである。仮に、知ることまでは必要でなく、知り得べき状況、すなわち、権利を行使することが期待可能であることをもって足りるとしても、同じように右各要件事実に関する認識可能性の有無が問われなければならない。
そして、本件のような進行性疾患については、前記宮崎地裁延岡支部判決が民法七二四条前段の短期消滅時効の起算点について次のように判断しているところを考慮すべきである。すなわち、右判決は、損害及び加害者を知ったときとは「加害者に対する損害賠償請求権の行使が可能な程度に(換言すればその権利行使に着手すべきことを期待しうる程度に)、具体的な資料に基づいて、当該不法行為による損害とその加害者を認識することを意味するものと解するのが相当である」とし、「広範、多彩な健康障害の少なくとも主要部分が当該加害行為に起因して進行的に出現・拡大するものであることについての認識の有無が、損害賠償請求権の行使の可能性を大きく左右し、かかる認識がない間は、損害全体についての賠償請求が不可能であるのは勿論であるし、また、すでに出現し且つ当該加害行為により生じたことの判明している重要でない一部の症状に関してのみ賠償請求に着手すべきことを当然に期待しえないものというべきであるから、……右に述べた症状の広範性、進行性及び加害行為との因果関係について、具体的な資料に基づいて認識するに至ったときから、全損害につき一律に進行を開始するものと解するのが相当である」と判示している。
右判決は不法行為に関するものであるが、考え方の基本は何ら変わることがない。
原判決は、この点について、消滅時効が進行するには、法律上の障害がなくなったことに加えて権利行使の期待可能性が存在することを要するとしつつ、じん肺症の症状が現実化・顕在化した最初の行政決定の段階で、損害及び安全配慮義務不履行の事実について、客観的に認識可能であったと判示しているが、右判示には、次の法令の解釈・適用の誤りないし結論に重大な影響を及ぼす審理不尽がある。
2、すなわち、第一は損害の認識(可能性)に関する誤りである。
仮に、じん肺症が死に至る進行性疾患であるという、疾病に関する抽象的な認識があったとしても、当該労働者が最初の行政決定を受けたからといって、その後当該労働者について発見されたじん肺症が、具体的にどのような経過を辿って進行するかについては全く予測不可能であって、まして死に至る全損害について賠償請求が可能な程度に権利行使が期待できたはずだなどとは到底いえないものである。原判決は、右抽象的認識がある以上、全損害についての権利行使を期待することができるというのであるが、これは、じん肺症の病像の実態からすれば、余りに無謀な議論と言わざるをえない。そもそも最初の行政決定を受けた当時、被災労働者やその遺族に原判決が述べるような肺の線維増殖性疾患であって死に至る進行性疾患であるといった抽象的な意味でのじん肺に対する認識すら存在しなかったものであるから、原判決の結論はその前提を欠くものと言わざるを得ない。
また、じん肺に罹患した被災労働者にとってみれば、徐々に進行する自らのじん肺症=健康被害の現実を知る具体的な資料としては、肺機能の検査結果やX線写真、さらには自覚症状以外にないが、これらは、原判決が指摘する肺の線維増殖性変化をそのまま表わすものではなく、時によっては線維増殖性の変化が進展しているはずであるのに、検査結果やX線は従前の状況より改善し、あるいは肺の状態が良好であるかのような外見を呈する場合もある。そして、重大なことに、じん肺症が生命を維持するうえで最も重要な臓器である肺の組織を侵す重大な疾病であり、かつ、粉塵という異物が肺の組織内に取り込まれて惹起される疾病であることから、全身の組織及び諸臓器に多様な病変をもたらすことも少なくない。いわゆる「合併症」と呼ばれるものがそれであるが、不幸なことに、これらがじん肺症に関連ある疾病として労災補償の対象とされているのはごく限られた少数の疾病のみであり、補償の対象外とされる余病に罹患している場合などは、じん肺症そのものを含む全身の健康障害の実態をもとに、じん肺症による将来ありうべき死に至る全損害の結果を予測するなど、到底不可能である。したがって、原判決が述べるところをもって、全損害について損害賠償請求を期待できるとすることは、明白な誤りと言わざるを得ない。
3、第二には、健康保持義務不履行の事実の認識(可能性)に関する誤りである。
最初の行政決定である有所見の通知があったことをもって、将来ありうべき死に至る全損害に対する健康保持義務不履行の客観的認識可能性があったとは、理論的にも実際的にも到底言いうるものではない。特に、被災労働者が在職中である場合に最初の行政決定を受けた場合のことを想定すれば、右のことは明白であって、これについては既に指摘したとおりである。
また、損害が確定し、被災労働者が死亡した場合には、請求の主体すなわち債権者は遺族ということになるが、この場合に債権者である遺族が被告企業の健康保持義務不履行の事実を認識することは至難の技であり、死亡の結果が生じたからといって、直ちに健康保持義務不履行に関する客観的認識可能性があるとは言い難い。
さらに、債務者に課せられるべき具体的に特定された健康保持義務及びその不履行に関する認識の有無は、債権者が置かれた社会的条件、債務者の労務管理、これらに規定された債権者の知識水準など、決して債権者の責任に帰することができない要因に大きく規定される。これに関する事実については後述する如くであるが、原判決が述べるような客観的な認識可能性を問題とするにしても、本件被災労働者及び遺族の状況からすれば、専門家などからその事実の指摘を受けた時点で始めて、被告企業の健康保持義務不履行によって本件のような被害が発生したという客観的認識可能性が存在するに至ったと解するべきである。
4、原判決は、被告企業の坑内に就労したこと及び被告企業の健康保持義務不履行と本件損害との因果関係に関する認識可能性については判示しない。しかし、本件については、一審被告に就労した事実及びじん肺症に罹患した事実を認識すれば、それだけで因果関係に関する認識(可能性)もあったものと判断することは早計であり、その有無は独自に審理・判断される必要がある。すなわち、一審被告は、一審原告らが坑内において就労していた当時、一貫していわゆる「じん肺隠し」を行なってきたのであるが、それは、一審被告の坑内に就労したことによってはじん肺症は発生しないのだという事実のねつ造であった。そのような状況のもとでは、原告らに本件じん肺被害の発生が一審被告の坑内に就労したこと及び一審被告の健康保持義務不履行によってもたらされたものだという認識など抱きようがなく、そのような認識(可能性)は被告会社の手によって摘み取られていたと言わなければならない。したがって、本件における「じん肺隠し」の実体をつまびらかに検討すれば、原判決のように最初の行政管理区分決定を受けたときから権利行使を現実に期待することが可能な状態にあったとは到底いえないものであって、この点に関する原判決の誤りもまた明白と言わなければならない。
5、権利行使が現実に可能である場合かどうかは、当該債権者にとっての事情を勘案して決定されるべきである。そして、本来、健康保持義務不履行に基づく損害賠償請求権の法的性質からすれば、当該債権者において権利行使が可能であることを現に知っていたことを要するものと解されるべきであるが、かりに百歩譲っても、少なくとも、当該債権者にとって客観的にみて権利行使が具体的に可能な事情がなければ消滅時効は進行しないものと解すべきである。そして、如何なる事情をもって、当該債権者を基準として客観的に権利行使不可能な原因(=権利行使の障害要因)があったものと判断すべきかについては、少なくとも、過失なき権利の不知、疾病・貧困・社会的事情等による訴訟困難等の存否が問題とされるべきであるところ、原判決は、右の諸点を全く考慮に入れることなく、最初の行政決定時をもって現実に権利行使を期待することが可能であったと判示するのである。しかし、
本件の場合、①損害、②被告企業による健康保持義務不履行の事実、③右と損害発生との因果関係について、本件提訴直前まで一審原告らが知らなかったとしも、それは、一審被告の「じん肺隠し」など、一審原告らの責に帰すことができない事情に基づく「過失なき不知」というべきである。このような場合にまで一審原告らが消滅時効による不利益を忍ばなければならない理由は全くなく、従って、このような場合には権利行使の障害要因ありとして消滅時効は進行しないものと判示するのが相当である。
さらに、かりに一審原告らが右権利行使を現実に可能にするための前記各事実を知りうべき状況にあったとしても、①一審被告による一審原告らや遺族に対する支配の実態、②雇い主であった企業に対する裁判提起など思いもつかなくさせてきた事情、③健康被害に見舞われたことによって余儀なくされる貧困など、諸々の権利行使=訴訟提起自体を妨げられてきた客観的事情を考慮しなければならない。しかも本件について認められるこれらの事情は、到底一審原告ら個人の責任によるものではなく、いわば「余儀なくされた事情」であって、一審原告らが裁判提起しなかったからといって、それをもって消滅時効の進行を理由に一審原告らに重大な不利益を負わせる合理的理由は全く存在しないのである。そして、このような事情が継続している場合には、何らかの形で、権利行使が可能であることを基礎づける事実の説明は勿論のこと、訴訟費用など提訴に伴って生じる負担や地域社会からの孤立を強いられることへの疑問、その克服の方策と可能性等について、一審原告らが置かれた状況に即して、提訴に踏み切ることを客観的に可能とする程度の説明がなされたとき、初めて権利行使の期待可能性ありと判示するのが相当である。
また、静岡地裁浜松支部昭和六一年六月三〇日遠州じん肺訴訟判決は、健康保持義務違反を理由とした損害賠償請求権の権利としての確立の遅さ(この損害賠償請求が最初に認められたのは福岡地裁小倉支部昭和四七年一一月二四日判決、最高裁ではじめて認められたのは昭和五〇年二月二五日判決においてである)を考慮に入れ、消滅時効起算点を右と同じ時点に求めているが、こうした健康保持義務違反に基づく損害賠償請求権が確立され、一般人に認識されるに至る事情も、権利行使の期待可能性を判断するに当たり重要な要素とされるべきである。
以上のとおり、原判決には、消滅時効が進行するには「権利行使の期待可能性」が必要だとしながら、その具体的な解釈適用を誤まった違法及び結論に重大な影響を及ぼす審理不尽があるものと言わざるをえない。
6、本件事実関係のもとで、以上の諸点に照らして権利行使が現実に期待可能な時期を具体的に考察すれば、提訴がなされた昭和五四年当時において、一審原告らの請求権が消滅時効の進行によって消滅していたとすることは到底できず、一審原告らの請求は例外なく認容されるべきであった。何故なら、本件において権利行使が現実に期待可能な時期とは、具体的には、一審原告らが集まり、弁護士から権利行使の可能性等について説明を受けた昭和五四年一〇月一〇日の原告団結成式の時点と判示するのが相当であり、本件提訴はそれより一〇年以内になされているからである。
本件について右の時点までは消滅時効は進行しないとするのは、次の理由による。
すなわち、一審原告らは、いずれも戦前の尋常小学校ないし尋常高等小学校における教育しか受けていない。「お国のため」に自己犠牲と献身を捧げること、進んで命を犠牲にし、身内の者が尊い命を失っても黙って耐えることを美徳とする教育を受け、国民全体が職場や地域、家庭のいわゆる場面でそのような方向に思想動員されていくなか、それに多大な影響を受けて生き抜いてきた。国民の健康や人格が絶対的価値として尊重されるべきであり、国民は自らのためにその有する権利=基本的人権を行使できるという価値観は、戦後における新しい教育の機会もなく、生活に追われてきた一審原告らには触れることもなかった。終戦によって日本の社会は大きく変わったが、多くの人々は依然として戦前の献身と自己犠牲を美徳とする価値観を断ち切ることはできず、辛いことも悲しいことも耐え忍び、ただ黙って誰からも後ろ指指されないで生きていけばよいという意識を引継いできた。そのような一審原告らが、本件のような労使関係から派生する健康被害につき使用者に対して責任追及の行動に出ることは、意識のうえでの大きな飛躍と転換を要求されることであった。
一審被告は、戦中戦後を通して北松炭田において採炭を続けてきたが、昭和三七年北松鉱業所を閉鎖して、北松地域から撤退するに至るまで、一審原告らを始めとする炭鉱労働者を、炭住を中心として家族を含めた生活のあらゆる場面を支配下に置いた。諸々の福利厚生措置や産児制限にも及ぶ「生活指導」を通して、生活及び意識の両面にわたる深い支配従属関係が形成され、労働者はこうした福利厚生措置など企業から与えられる恩恵(「権利」ではない)の代償であるかのように、劣悪な環境下における過酷な労働に駆り立てられた。右のような状況は、労働契約に基づく近代的な労使の権利義務関係というにはほど遠く、一審被告は戦前教育による「良質」な労働力をこのようにして引き続き維持し利用したのである。そして、最も尊重すべき労働者の命と健康についてはこれを全く顧みることなく、粉塵労働の危険性やじん肺症発症の事実を隠蔽し、あるいは、これを積極的に否定して、労働者を劣悪で過酷な坑内労働に送り続けた。そして、労働者にとっての一層の不幸は、一審被告が経営する右北松炭鉱病院において健康診断が行われ、その結果が一審被告によって意図的に隠蔽され続けてきたことである。自らの健康に関するデータまでが一審被告の手中におかれ、握り潰されてきたことによって、労働者は、粉塵労働によるじん肺症発症の危険性やその病像、自らの健康状態やこれらに応じた安全衛生措置について、全く無知な状態に置かれてきたのである。また、一審被告は、疾病等によって労働不能となった労働者については、雇用関係が終了したことを理由に、労働者とその家族を炭住から追い出したが、そのことは、病気(じん肺)の恐ろしさを眼の当りにすることから炭住住民を遠ざける結果となった。
昭和三七年、「じん肺隠し」に徹してきた一審被告は、北松鉱業所の閉鎖をもって北松炭田から全面的に撤退した。じん肺症に対する何らの手当もなすことなく、まさに労働者は「使い捨て」されたのである。そして、当時もそうであったが、本件提訴当時においてもなお、北松地域においてじん肺症の診断が適確にできる医院は限られており、一審原告らの多くは、それがためにかなり時を経過して重症化した時点でしかじん肺症であることを知ることができなかった。それほど炭鉱の点在する地域でありながらじん肺症に関する認識は一般的ではなかったといえる。原判決は、けい特法、じん肺法制定によってじん肺症に関する知識も一般化した旨判示するが、右法律の制定によるじん肺症に関する認識は、それ以前に行われた一貫した「じん肺隠し」と右北松地域からの撤退(じん肺法制定後たった二年後)によって大きく妨げられ、そのまま提訴時期に至ったものであって、判示の誤りは明白である。
一審原告らの多くは、以上のような経過から、じん肺症罹患を運命(=天の定め)として受け入れ、自らの運の悪さを嘆き悲しんだ。また、なかには、一審被告の仕打を恨み「運命」とは諦められない思いを抱き続けてきた者もいたが、仮にそのような意識を持っていたとしても、病苦と貧困によってその日その日を生きることで精一杯の状況であり、まして昭和三七年には既に北松鉱業所が閉鎖された状況では、雇用主にその責任を追及するなど思いもつかなかったとしても不思議ではない。さらに、健康保持義務違反による損害賠償請求権が法的に確立されるに至るのが昭和五〇年であるところ、法律的な知識など全くない一審原告らにとってみれば、何らかの方策を考えようにも、客観的には労災保険制度による生活と医療補償を超える方策を思いつくような状況にはなかったものというべきである。
このような状況であったから、一審原告らが本件提訴を思いつくには、並大抵の努力ではなかった。すなわち、じん肺患者とその家族の多くが生活保護に依存して生活せざるを得ない状況を改善する方策を真剣に考えていたじん肺患者同盟の役員・幹部が、昭和五二年の長野じん肺訴訟提起に触発され、二年越しの検討と専門家への相談を経てようやく提訴の方向を決定し、昭和五四年一〇月一〇日の原告団結成式に至るのである。
以上、第一審原告らの労働及び療養生活に刻まれた歴史を直視すれば、右原告団結成式における説明をもって、現実に権利を行使することが期待可能な状況となったと判示するのが相当と言うべきである。